2011年02月02日

平和教育

殿の日本語学校6年間、文科省認定の国語の教科書や社会の教科書で「平和教育」を意識したところがたくさんあるなあと思っていました。今までも国語の教科書で「ちいちゃんのかげおくり」とか「一つだけの花」とか、戦争中にあった悲しいお話をあつかったりしていますし、6年生でも「平和のとりでを築く」というのがありました。社会科の歴史の授業でも戦争中の様子は写真や絵を通じてしっかりビジュアルでも印象に残る教え方をして下さっているようです。殿は「はだしのゲン」を読んで感想文を書いたりもしていました。

外国に住んでいなかったら、私自身も「そうそう、戦争は恐ろしい、戦争反対!」「戦争しないように皆仲良くできるよう頑張ろう!」みたいなところで終わっていたと思うのですが、原爆を投下したエノラゲイが第二次世界大戦を終結させたヒーローのように扱われているアメリカに20年ちかく住んでいると、日本の目線での「戦争のない平和な社会をめざして」メッセージは、それがアメリカを初めとする多くの国の人々にはわかってもらえていないんじゃないだろうか、と思うことが多いことも事実です。相対的な平和の実現のためには戦争が必要、と信じて疑わない人々は多いのです。「戦争のない平和な社会を」と言うときに、他の国の人たちはどういう背景でどういう風に戦争や平和を理解しているのか、ということをわかっていないと結局は空回りなのかなあという気はするんです。

「戦争は悲惨、ひどい、むごい」だから戦争はだめ、という感情論の延長では根本のところでは分かり合えないと思います。アメリカは、歴史の中で戦争にかかわっていない時期のほうが短いわけですし、彼らにとって「戦争」とは自分達を守るための必要悪という次元でしかない気がするのです。自国で人がたくさん死んでいく戦争は南北戦争以来経験していないですから、「戦争の悲惨さ」も実感できない人々の方が多いのです。人類みな兄弟的な発想ではなく、世の中悪いやつは必ずいて、話し合って分かり合えるほど人間は甘くない、という根底の発想もみのがせないと思います。

一言で「戦争」といっても、いろいろあるわけですが、日本ではそこをつめて勉強した記憶はありません。日本で「戦争」といえば、ほとんどの場合第二次世界大戦(太平洋戦争)をさしているし、そういう太平洋戦争みたいな戦争起こさないようにしなくてはいけない、という考えにつながっているのでしょうね。アメリカでWarという単語をつかうと「どの戦争?」と必ず聞かれます。

「軍国主義の国が、領土を拡大するために侵略戦争をする場合」その戦争は悪いというのは、基本的に誰でも合意することなのではないか、と思います。日本で「戦争のない平和な社会」というときの戦争は、どういう戦争なのか私は日本を出るまで考えることはなかったです。日本の場合、第二次世界大戦の終結で、何もかもが真っ白なところから再出発したので、過去の歴史は過去のもの、これからは「争いのない戦争のない世界へ」という発想になっているのではないか、と思うのですが、アメリカや世界の多くの国々にとって第二次世界大戦は歴史の中でのひとつの戦争でしかなくて、そこによって国が成り立っている原理原則やの価値観を変換されたととらえているわけではないのです。

「戦争=悪」なのか、という理解からして世界の人々の間にはものすごく温度差があります。戦争は「究極の善」を追求するために避けられないのだと思う人も多いし、実際、戦争をすることで国を建ててきたアメリカの人々にとっては、「すべての戦争=悪」という意識は皆無なんじゃないでしょうか。戦争をしたからこそ、独立できたし、戦争をしたからこそ、自由と平等の民主主義の国になれたと。戦争にもいろいろあって、すべての戦争をひとくくりにして考えないのもアメリカ的なのです。戦争で命を落とすことがあっても、それは「人類の善」を追求するために尊い命をささげた、ということで意味のあること、と考えるようなのです。その命を失って悲しくても、つらくてもそれは運命、それこそ人生、みたいな。

戦争は避けるに越したことがないけれど、でも戦争をしないことによって失うことと戦争をすることによって得られることをはかりにかけてから結論を出す、というのがアメリカ人一般的な戦争のとらえ方だと思います。人の命がかかっているのに、それはさておき、みたいな感じで考えてしまう理論にとても違和感はあるのですが、でもそういう考え方の人に「戦争はいけない」ということを説得力をもつ方法で伝えるのは「感情論」では太刀打ちできないのですよね。

日本がパールハーバーをしかけなければ、アメリカは第二次世界大戦には参戦しなかったと言われています。独裁主義の国が世界のどこかにあっても、アメリカは自国の平和を脅かされなければ、基本的には警戒するだけで、手を出したくないということだったのだと思いますが(イラクは完全に蓋を開けたら間違いだったとわかっちゃったわけで、とんでもないことだったと思いますが)、第二次世界大戦の場合「そもそも日本が先にしかけてきたので、仕方なく世界の平和のために一役かってでたんだ」という説明はよく聞きます。

軍国主義だった日本は敗戦によって現在の個人の人権を認めた民主主義の国として再出発することができたこと、それは「善」ではないのか、戦争の産物ではないのかと言われたら私は何も言えなくなってしまうのです。軍国主義で、1人1人の自由を認めず、個人の人権も無視され、独裁政治が行なわれている社会の方がその国の人々は幸せなのか?と問われたら日本の皆さんはどう答えるんだろう?学校ではその点についてはどう教えているのでしょうか?戦争なしで、草の根運動で民主主義が達成できていたんだろうか。暴動を起こさず、命を落とす人もなく軍部の弾圧から個人を尊重する社会に変わっていくことは果たしてできたのでしょうか。できなくても、それはそれでよかったのでしょうか。

今までの歴史のなかで、結局「究極の善」を追求するために世界中の沢山の人々が犠牲になってきたこと、それは事実なんですよね。国対国だけでなく、一国の中でも常に争いながら、歴史が作られてきた。

戦争なしで、非暴力で自分の価値感を守ることができれば、人類のための善を追求できればそれに越したことはないけれど、結局歴史をみてくると、人間というのは、争わずに善を追求することは今までできないまま歴史が流れていると思います。

平和って何でしょう?「戦争による爆撃が自分の住んでいるところにはない=平和」なのでしょうか?今アメリカは戦争をしていますが、国内は戦時といいつつも「平和」な生活がおくれています。それで、その国内の「平和」は、アフガニスタンを攻めて、イラクを武力で押さえたから得られているのだ、という論理の人たちもいます。まさしく「平和」のための戦争です。9.11はよくパールハーバーと比べられるのですが、パールハーバーのように、いきなり爆撃をされて攻められたときにも「戦争は良くない」「話し合いで解決しよう」と言うのがアルカイダ相手に非現実的だと感じたのは私だけではないと思います。

今、私はアメリカにいて毎日爆撃の恐怖を感じることはないわけですが、アメリカは戦時なわけです。現代のアメリカ人にとっての「戦争」というとたとえアメリカが戦っていても自分の住んでいないところで行なわれているというのが普通なのです。アメリカ人が知る「戦争」は、広島や長崎はもちろんのこと東京大空襲を体験した人(現在も生き残っている人たち)が知る「戦争」とはまるで違うのですね。だから余計に、戦争の悲惨さを伝えようとしても、ぴんとこないだろうし、戦争の抑止にはならないと思うのです。

ここアメリカに住めば住むほど、「平和」について本当に共通の理解ってありうるのかなあ、と深く考えます。その意味で、殿や若が日本語学校で、日本の教科書を使って勉強させてもらっていること、はとても大きな意義のあることなのだなあ、としみじみ思います。

人が違う立場の人を尊重できなかったり、言葉の暴力を平気で容認したり、人をおとしめるようなことを平気で言ったり、そんなことをしている限りは人間の間の摩擦なんてなくならないですよね。そういう人の摩擦が大きくなって、他の人々への不信感がつのり、その延長線上が「戦争」なのではないか、と思うのです。結局は戦争って、人間そのものがある意味で進化しないとなくなっていかないのではないか、と。

「そんなの無理に決まっている」という現実的な意見も当然ありますが、でも「無理に決まっている、戦争は将来も起こり続ける」と自分が預言者になっちゃったらダメですよね。預言して人間や世の中がわかった気になっているというのも危険だと思います。戦争をするかしないか、というのを決めていくのも民主主義の世の中では「私」なんですよね。戦争にどうかかわるかを決めるのも「私」。もちろん、自分の意見が全部まかりとおって思うとおりに世界が動くわけではないけれど、選挙を通じて自分のかわりに社会を運営してくれる人を選ぶのは自分なわけだし。政治を通して国の進む方向が決まっていくことと私とは無関係ではないはず。

そういう意味で、唐突にきこえるかもしれないのですが、参政権をきちんと行使することのできる、自分で物を考えることができる人間を社会のなかで育てるということも平和教育の基本だと思います。自分の子供だけでなく、社会で子供を育てていくという大きい意味でも。戦争に突入するかどうか、世界の戦争にどう政策としてかかわるかを決めるのは各国の政治家なのですから。「平和教育」って民主主義の社会で大人として、きちんとした判断ができるようになるように教育することでもあると思います。

「戦争=悲惨、ひどい、むごい、悲しい」という感情論を超えたところで、自分とは意見の違う人がいた場合どうやって対応するのかということを考えさせたり、そもそもなぜ考え方の違いが生まれるのかしっかりとみつめさせたり、弱い立場の人がいたらどうやって助けるか考えられるようにしむけたり、人の意見のうけうりでなく、情報をもとに自分で考えることのできるような教育をしたり。大人でも、夫のうけうりのことしか言えない女性もよくみかけますよね。社会に直接かかわっていないということなのか、家のことで忙しいからなのか。いろいろなことを批判したり文句を言っているので「それってどういうこと?」とつっこんで質問すると「夫が言ってたことだから、くわしくはよくわからない」って逃げたりする人。悲しいなと思います。自分で考えることから逃げていたら、それは責任ある大人とは言えないのではないかな、と。

違う意見の人がいた場合に我を通すことだけでなく、相手の話を聞いた上で自分の考えることを論理立てて説明できること、そしてその上で妥協してお互いが納得できる解決法を見出す努力を惜しまない大人になることも大切なはず。

もちろん、「人間は自己中心的だし、それを変えようとする気がないから戦争が起こる」なんて短絡的な論理を言っているわけではありませんが、日々の一つ一つのこと、毎日真摯に物事に対応しているのかどうか、毎日子供を怒鳴っていないのか、弱い人をじゃけんに思っていないか、異質のものを軽視したりしていないか、そういうことも含めてトータルに私自身も自分を見直すと、まだまだ精進が足りないと思うのです。個人生活はある意味で社会の縮図なのでしょうし、そういう不完全な私みたいな人の集まりである社会の中で、人類が争わず、みな仲良く平和に暮らせるというのがまだ程遠い、というのも何だか納得できる事実であったりするわけです。

「戦争の悲惨さを伝える」ということは大事なことだけれど、戦争は怖い、ひどい、むごい悲しい、だからダメ、というところからもう一歩進んで、今自分がどういう風な生き方をするのか、考え方をするのか、子供達の世代を人間としてどう教育するのか、それが「平和教育」につながるんじゃないのかなあ、と殿の日本の小学校6年間のカリキュラムに付き合ってきて思うのです。

_DSC0521.jpg
漢字のドリルをやりながら眠ってしまった殿。まだ夜7時なのに。
現地校の宿題に追われているので、日本語の勉強はあまりできない状態です。よく6年生までがんばったなと思います。卒業まであと少し、がんばれ!
posted by ちょこ at 00:00| Comment(0) | 雑感 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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